皆さん、トキオです。
初めに、自己紹介させてください。
トキオ
目次
投資や経営などのアイデアをブログにしています
ブログ初心者です
初めまして、2021年10月ごろにブログを始めたばかりのブロガーです。
株式投資や経営のアイデアを集めたものを皆さんに教えたいと思い、ブログ開設をしました。まだ、始めたばかりでレイアウトや、文章構成などが未熟な部分があると思いますが、その部分の成長過程なども本編と一緒に見てもらえると嬉しいです。
では、本日の投稿に入ります。
今日は、タイトルにあったように時代を作ってきた外食産業の人達を紹介していきます。
概要
今日のブログは、現代の人々が利用したことのある外食産業の歴史と外食産業を大きくした偉人について、描きたいと思います。
まず初めに、戦後の外食産業の状況と外食産業の市場規模の背景確認。次に、外食産業に大きく貢献した日本マクドナルド創業者 藤田田。ファミレスブームの着火人 横川兄弟。日本ケンタッキー・フライドチキン 大河原毅。この3人の歴史と戦略を学んでいく。そして、この外食産業を大きくした3人に共通する大きな野望を学んでいく。
外食産業の歴史
1945年に終戦を迎えるまで、日本の飲食産業は全滅していた。第二次世界大戦が始まるまでは、飲食産業はあったかもしれないが第二次世界大戦が始まると、戦況が著しく悪化したことにより今まで国家で配給制になったことで全滅したでしょう。そして、終戦し1949年になり、配給制が撤廃したことで日本の飲食業が再開する。1970年に、大阪千里丘で開かれた大阪万博で、日本の飲食産業が外食産業へと成長するきっかけとなる。
欧米の先進的技術と外食企業の店舗運営は、当時の外食産業と名ばかりの水商売とは全く異なったものだと日本人にわかった。
日本の外食産業の市場規模は、約26兆円と推定されています。
日本で最も有名であるユニクロやGUのアパレル事業を行うファーストリテイリングが2021年8月期の通期連結業績で売上収益が前期比6.2%増をして2兆1329億円です。
日本でアパレル事業で最も売れている企業でさえ、日本の外食産業の13分の1なのです。
ここから、日本の飲食産業の市場規模が、どれだけ多いかがわかりました。
次に、日本の外食産業をリードしてきた日本マクドナルド創業者 藤田田について学んでいきたいと思います。
日本マクドナルド創業者 藤田田
この人が、藤田田です。
藤田田の歴史
藤田田は、1926年3月13日、5人兄弟の次男として大阪・城東区に生まれる。
藤田 田(フジタ デン)と最初みた時に変わった名前だと思った方が多いと思います。その名前の由来が、すごいユニークです。
名付けのは、母親の睦枝(よしえ)でクリスチャンで、田は口の中に十字架が入っているという考えがあり、話すこと口にすることを神に守ってもらえるようになるという由来があるそうです。
父は、英国企業で電気技師として働いており、その関係で自宅に外国人の方が来るという環境だったため英会話力と国際感覚が長けていきました。
高校では、クラス総代として早口の大阪弁で正義を述べ、人情味がある無邪気な性格でした。
そして、1948年東大法学部に入学しアルバイトとしてGHQの翻訳を務める。
そこで親しくなったユダヤ人軍曹から利殖術とビシネスを学び始める。そして、その知識を元に、輸入雑貨の商いを始めて大儲けをします。
1950年、24歳の時、当時は東大3回生であったが藤田商店を設立。
この時に、朝鮮戦争の特需があった中でユダヤ人から学んだビジネス感覚を最大に発揮し、財をなす。
そして次のビジネスとして、女性をターゲットにして宝石やブランド服飾品の輸入業をする。
現在、若者の憧れのブランドであるクリスチャン・ディオールの代理販売契約を獲得することになる。
こうしたラグジュアリーブランドの代理販売による縁で、マクドナルド事業に必要な縁である三越百貨店・岡本茂と出会う。
米マクドナルド創業者 レイクロックとの出会い
1969年3月に、日本政府は外食産業の資本率100%自由化を進めたことにより海外の外食企業が日本に流入し、マクドナルド創業者のレイクロックも日本進出ため提携先を探していた。
日本の大手スーパーや商社と交渉を進めるが、日本の会社の悪いところである会議の内容を本社に持ち帰り判断するという慣習に、マクドナルド創業者のレイクロックは悩んでいた。
日本で交渉がうまく進んでいなかった時に、シカゴに住むマクドナルド創業者の3人の1人であるジューン・マルティーノの隣人に、藤田商店のアメリカ支社社長であるダグ・マイコラスがいました。
その二人の話の中で、日本で商才を発揮している藤田田の話をしジューン・マルティーノが、レイクロックに会うことを強く提言した。
しかし、藤田田は、最初あまり乗る気ではなかったみたいだ。
実際に、藤田田がマクドナルドのハンバーガーを食べても感動はなかったみたい。そう思ったの同時に、貿易業で財を成した自分が、外食産業だと??という葛藤があったそうだ。
しかし、レイクロックと逢ってみると、初対面にも関わらずお互いに惹かれていく。
貿易業で培った強気の契約条件を進めていく
藤田田とレイクロックは、会った瞬間から意気投合していき、日本マクドナルドの交渉について進めていくことになった。その交渉の場で、交渉が決裂しても失うものはないという意気込みで強気に交渉の舵を取っていく。
交渉内容として、合弁会社を狙って出資比率を50%対50%とし、経営権・人事権は全て藤田田に帰属し、アメリカ本社のアドバイスは受けるがオーダー(命令)は受けない。また、ロイヤリティーは1%で、収益は全て日本での再投資をする。契約期間は、30年とし、万期時の再契約は選択権は藤田田 個人が持つということである。
その結果は、
「クロックは『OK、それでやろうじゃないか』。そして『お前の手を見せてみろ。俺の手は若い頃に工場で働いて薬指を一本失っている。それでもここまで来た。お前のは全部揃っている。それなら、俺以上に大成功できるに違いない。必ず日本で成功させると約束することーーこれこそが契約条件だ」
と言ったのです。どうですか?カッコ良すぎませんか。レイクロック!!
マクドナルド日本一号展出店
合弁契約は、1971年の1月16日に敵結しました。
そして、2月にアメリカ本社にあるハンバーガー大学へ部下である加藤義明を派遣し、システムの教育を学ばせました。そして、4月大田区に日本ハンバーガー大学を設立し、その敷地内にノックダウン実験として(建設シュミレータション)実務実験が行われる。
そして、店舗の予定建設地を選定した上で藤田田は、4つの地域をアメリカ本社に提案しました。提案した候補の中には、日本のど真ん中である銀座が、ありました。藤田田は、三越百貨店の岡田茂を口説き、当時最も商業施設として名高い百貨店に店舗を出せる約束を取り付けたのです。他の地域では、東京タワー、赤坂、湘南エリアで、銀座を含めた4つでした。
アメリカのマクドナルド本社から、アメリカとは違い出店方針にクレームが来ました。
アメリカでマクドナルドが、事業発展できた背景に郊外でモータリゼーションという車社会のムーブメントがあったため、米マクドナルドは郊外エリアに出店してきました。
ところが、日本マクドナルドの第1店舗目を、都市部に出すという方針に否定的だったのです。
しかし、藤田田は
日本のモータリゼーションは未だ端緒に着いたばかり。外来文化というのは、その国の中心から入っていかないと普及しない。常識を逸脱したものでも、銀座でヒットさせれば全国が注目する。一号店はなんとしても銀座でなければならない。
藤田田の中で、日本第1号展マクドナルドは銀座に出店するという熱い想いがあったことが伝わってきます。
そこで、藤田田は驚くような計画を考えたのです。アメリカ本社には、湘南エリアに出店が決まり建設を進めるという一報を伝えた上で、水面下で銀座店舗の準備を同時に進めるという計画です。
39時間で日本マクドナルド第1号店を出店する
実際に、湘南エリアでもマクドナルドの建設を進めていき建物も完成させる。
驚きですよね!!実際に店舗まで作ってしまうという藤田田の行動力がすごい!
日本マクドナルドを出店を祝うべくアメリカ本社から15人が日本に来訪する。しかし、その時に、湘南エリアの営業許可を市町村に提出したが市議会から許可を貰えず出店計画を止まっていた。
あの実業家のレイクロックも回転できないかもしれないと部屋に引きこもってしまったらしい。
その中、水面下で進められてきた三越百貨店にマクドナルド第1号店を出店するという計画が、表舞台へ出てくるのです。
三越百貨店が閉店する夜6時から休館日の月曜日を挟んで火曜の営業日までの39時間で出店するという大規模な出店計画を進める。人員は70名で23坪、客席なしの馬券売り場スタイルの店を完成させるのです。
水面下で進めていた計画を必ず実行する藤田田の対応力とリスクへの考え方が勉強になるね
レイクロックは、水面下で銀座店を第1店舗として選び開業までについて以下のように言っている。
人を欺くかに見える藤田のトリックだが、それは藤田一流の人を楽しませるユニークとサプライズと手品だ
と述べています。
そして、日本式の立地戦略が成功するとともに、ダウンタウンの出店をアメリカ本社でも採用するのです。
マスコミを上手く使い、お客のイメージを変えていく
日本では、立ち食いや食べ歩きはイメージは、行儀が悪いという風潮がありました。
ファーストフードを発展させるためには、立ち食いや食べ歩きをかっこよくてトレンディーなことだというイメージ変えていく必要あると藤田田は考えたのです。
悪いイメージから良いイメージへ変換するために、広告代理店である博報堂によるマスコミ動員作戦を実施しました。
銀座の歩行者天国でドナルド人形を歩かせ、歩道にゴミ箱置き、それをサンキューボックスと命名しゴミ箱もおしゃれにして、食べ歩きは「おしゃれ」であるというイメージを構築していったのです。
そうしたマスコミ作戦が功をそうし出店が、他県でも決まっていくのです。1972年に京都・藤井大丸を関西第1号店。73年には名古屋に出店をする。75年に、年商100億円を突破する。77年にドライブスルーを初めて環八高井戸店で開始。90年、山形店に出店をし、全国県制覇をする。そうして、現在は、国内に4000店舗以上存在し、年間来店数は11億人以上いる。
こうした間に、ウインビー、バーガーキング、A&W、バーガーシェフ、ホワイトキャッスル、ハーディズ、アービーズ等々のハンバーガー会社が日本に外来したが、マクドナルドが壁になりマクドナルドのように成功することができなかった。
藤田田はマクドナルドをタダの外食企業とは思っていない。マクドナルドとは、高速加工食品販売業だと定義している
まとめ
最初にごめんなさい。藤田田以外に、すかいらーくの横川兄弟や日本ケンタッキーの大河原敦について書くはずだったのですが、藤田田だけでかなりの分量になったので、やはり一人一人分けて書いていきますね
私たちが普段食べているマクドナルドは、レイクロックの熱い藤田田の期待と藤田田の前例のない日本独自の風土を活用した戦略の布石のもとに存在していることが、わかりました。
また、藤田田の出来事を追ってわかったことが、3つある。
・人を惹きつけ人を動かす
・類まれない人心掌握術
・強大な推進力
この3つは、外食産業だけではなく他業種の仕事でも必要になってくるのではないだろうか。
これから、私はこの3つの勉強をしてきます。
今回のブログを読んでくれてありがとうございます。読んだ感想やコメントお待ちしています。
エピローグとして、藤田田はこのような名言を残しています。
「人は12歳までに食べていたものを一生食べる」
「大衆の2ミリ先を行く」
「ハンバーガーの味が分からないやつは、ゴリラかチンパンジーだ」
と、一度は聞いたことがあるかもしれない名言が沢山ありますね。
今回のブログで、藤田田のことをもっと勉強してみたいと思った方は、アマゾンのリンクを貼っておくので本を買ってみてください。
では、次のブログでお会いしましょう。さようなら
TOKIO
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