現在、当たり前になっているファミレス。
皆さん、一度はいったことはあるのではないでしょうか
ファミレス
その中でも、大きなグループである「すかいらーく」である。グループ内には、ガスト、バーミヤン、しゃぶ葉がある。これが有名なファミレスだと思います。しかし、それ以外にも、14ものレストランがある。この機会に、「すかいらーく」グループの全てのレストランを紹介したいと思います。
CAFE レストラン「ガスト」
中華レストラン「バーミヤン」
しゃぶしゃぶビッフェ「しゃぶ葉」
ファミリーレストラン「ジョナサン」
和食レストラン「夢庵」
ステーキ&サラダバー「ステーキガスト」
から揚げ専門店「から好し」
カフェ&ダイニング「むさしの森 珈琲」
和食レストラン「藍屋」
イタリアンレストラン「グラッチェガーデンズ」
回転寿司「魚屋路」
和ごはんカフェ「chawan]
ハワイアンダイニング&カフェ「La Ohana」
とんかつ・から揚げ「とんから亭」
うどん・定食・天ぷら「ゆめあん食堂」
いろどり和菜「みわみ」
こんなに、「すかいらーく」グループは様々なジャンルのご飯屋を展開しているですね。
僕も、調べてみて初めて知ったお店が何点かありました。海外にいけないので、ハワイアンレストランに行ってみたいですね。
創業当時の環境
目次
1970年、自動車革命(モータリゼーション)により街道型のドライブインが、増えています。ドライブインの利用者は、観光バスの人やトラック運転手がメインでした。
こうした背景に、四人兄弟がアメリカに訪れ「新しい時代の、新しいタイプの、レストランコンセプト」を作り出すのです。
少年時代
「すかいらーく」グループは、四人兄弟によって創業されるのです。
横川 端(だだし)、亮(たすく)、竟(きわむ)、紀夫(のりお)です。
横川兄弟は、戦後一家揃って満州に開拓団としていった経緯がある。そこで、父が極寒地で病気にかかり他界する。その機会に、横川家族は郷里に戻ることを決意し、一人で育てることになるのです。
長男は、地元の時計メーカーに就職する。次男は、母の姉に容姿になり農家なり、その傍らで閑散期に西新宿で海苔屋で商いをする。三男は、中学を卒業後築地の食品問屋に就く。四男は、東急電鉄に就職する。
そこで、四男は東急電鉄で切符売りの日々に、悶々とした日々を過ごしていた。
四人兄弟は、満州から日本に帰ってきてそれぞれの生計を立てていた。だが、次男の亮が、三男の竟と紀夫に「一緒に商売をしないか」と声をかけたのです。三男の竟と四男の紀夫は、否応もなく自ら資金を出すといい商売を始めようとするのです。
次男の亮が、発起人になっていなかったら「すかいらーく」グループは、誕生していなかったかもしれないね。
三人の兄弟が準備した資金は、25万円です。これを、現在の価値に変換すると500万円くらいになります。このお金を資金に、次男の亮が閑散期に商いしていた海苔と三男の竟が関わっていた食品問屋を職歴を生かして乾物屋を始めます。ここで、なぜ長男を誘わないんだっていう疑問があると思います。そこには、兄弟のリスクヘッジがあったのです。もし事業が倒れてしまったら共倒れになってしまうので、あえて保険として長男には他の場所で働いてもらうことにしたのです。
乾物屋の名前は、ことぶき食品です。
営業方針として、清潔感のあるお店にし、皆がお揃いの赤いネクタイにベージュのブレザーのユニフォームを着用する。爽やかな印象を与える接客を掲げたのです。お店の外観は、彩り鮮やかなストライプ模様のシートを使用する。くすんだジャンパーに前掛けという旧来の食品問屋とは、全く異なるお店でした。
そこには、常識にとらわれない、消費者有線のサービスの精神があったのです。
消費者の心を掴んだ「ことぶき食品」は、4年間の間に東伏見、秋津、清瀬、西荻窪、国分寺の5つエリアに事業展開し年商は7億円に到達していました。しかし、兄弟に苦難の壁ができたのです。それは、流通革命です。
流通革命とは、「 メーカーによる販売店系列化、卸売業者などの中間業者を排除した流通経路の短縮化、小売業者による販売技術の革新などが主なものである。」です。
流通革命により、大型チェーンのスーパーが誕生し今まで消費者が購入するために必要だった問屋の存在が不必要になったため「ことぶき食品」は、収益が徐々に縮小していき業績は下降路線を辿っていく。小売業で、大きな遅れを取ったため大型スーパーと対等に勝負することはできないと考え、事業転換を考え始める。
この当時を楽天家で負けず嫌いの次男 亮は、以下のように答えている
「敗北感に打ちのめされた、ということは全くなかったですね。潔く、捨てて、次の挑戦に取り掛かればいいじゃないか、と。つまり創造と破壊ですよ」
と答えています。さすが、ビジネスを興そうと考える人の考え方は、変わっている。
次なる事業展開をどうすれば良いのかと考えている時に、入会していたクラブでアメリカにいくことになるのです。
事業展開のアイデアを求め、アメリカへ!
日本リテイリングセンターが、小売業と外食業を学べるアメリカ視察セミナーに次男の亮と四男の紀夫が参加する。そして翌年に、長男の端と三男の竟がアメリカに視察にいくのです。
そこの視察で、訪米した時期が違うが視察してアメリカで起きているモータリゼーションの発展が、急速に拡大していることが身を通してわかった。この現象は、四人兄弟はカルチャーショックであると述べている。
サバーバン立地でショッピングセンターの誕生と外食チェーン店が、アメリカ国内で成長産業であることがわかり、四人兄弟は、「日本も遠からず、こうなる」と確信。
日本の帰国後、四人兄弟はアメリカで得た経験からファーストフードの開発を開始する。しかし、納得したファーストフードを発明することができず、他のファーストフード会社と業務提携しようかと考えマクドナルドに業務依頼を打診してみましたが、資本力が3000万円以上なければ提携することができなかったため断念。
マクドナルドのようなファーストフードができないことから、日本では未だないアメリカで学んできた別の飲食業務に挑戦することを進めるのです。
要点は ファーストフード店は磨き上げた1品の商品力のみで勝負するのが定石通りの戦略である。
一方で、サービスレベル、店舗環境、快適な時間の提供、商品力を全てセールスポイントとするロードサイドのコーヒーショップ業態が、アメリカで新たなブームになっていた。
しかし、日本ではロードサイドショップの業務形態では成功しないと思ったのです。
理由は、ロードサイドショップはコーヒーや軽食が食べられることがセールスポイントであったために、利用者がビジネス客が多くファミリー層が少ないことだった。
そこで、ロードサイドの業務業態の問題であった見知らぬ土地で食事をする際に安心できるようにオープンキッチンへ変更。メニューもファミリー層や団塊の世代に変換する。
一号店は、敷地面積を260坪、ガラス張りで陽光が入るようにし、天井を高くし広さをアピールする。
メニューも、誰でも気軽に払えるようにポピュラープライス、ハンバーグは380円、ピザパイは400円に設定した。
また、1970年7月に一号店ができてから店舗名をカタカナで「スカイラーク」としていたが、1970年12月に「カタカナよりひらがなの方が、イメージが優しくて柔らかい」との理由で、変更する。
こうした変更により、大繁盛する。初年度年商7700万円、翌年には1億2000万を達成する。
新たな注文システムを導入する
1981年、ファミリーレストランの大規模チェーン初のPOSシステムを日通工と共同開発し全店で導入した。これにより、既存の手書き伝票による利用客からのオーダー受けが客席におけるハンディーターミナルのボタン入力で完了し、メニューの販売履歴の管理、在庫管理・発注がシステム化され、効率的な店舗運営が可能になった。このシステム化の成功により、少人数での対応によるローコストオペレーションへの改革と多店舗化に弾みが付くこととなった。
1980年代半ば、それまでのチェーンレストランには無かった斬新な和食メニュー「麦とろご飯膳」を発表した。世の中のヘルシー嗜好などに即したとろろを取り入れたため、ファミリー層を中心に売れ筋メニューとなった。以後、すかいらーくは和食メニュー開発に積極的に取り組み、「きのこ雑炊」「チキンもろみステーキ」「まぐろ丼」など、自社のセントラルキッチンをフル活用したヒット商品を作り出した。
すかいらーくの大規模転換
1990年代までに、「すかいらーく」は今までにない仕組みを取り入れ、ファミリーレストランは洋食という固定概念から脱却し和食を提供をし、大きく成長してきた。
しかし、モータリゼーションから日本の成長と共に繁盛してきたがバブル崩壊により、今まで通りに行かなくなる。
1992年、バブル崩壊後当時の低迷を打開すべく、当初は高級路線の実験店舗ブランドだった「ガスト」を、低価格の新業態として東京都小平市に1号店を開店した。なおこの1号店はのちに閉店し、隣に新しくバーミヤン小平仲町店が建てられている。
「すかいらーく」から、「ガスト」へ改名する
「ガスト」の店名は、スペイン語・イタリア語で「味」を意味する“gusto”(グスト)を英語読みしたものである。
1993年には、当時720店あった「すかいらーく」のうち420店舗を約1年でガストに転換。「おいしい料理を、ポピュラープライスで、自宅のダイニング感覚でお食事を」をコンセプトに、客単価を大幅に下げたために1993年ごろには業界で「ガスト化」「ガスト現象」など呼ばれるブームを巻き起こした。
そして、今のファミレスでは当たり前のドリンクバーを導入する。
また、業務効率を推進するためにも様々なシステムや機材を導入を進める。その例として、ジェットオーブンとベルスターがある。
以下がジェットオーブンである。
ジェットオーブンは、ソフトな焼き上がりを要求される卵料理から焼き目を強調した魚料理まで、幅広くご活用いただけます。レストラン、居酒屋、ピザ店などの飲食店や給食施設、食品加工場まで幅広い業種・業態で活用することができる。
直接みたい方は、ドミノピザにいくと見ることができる。ドミノピザは、オープンキッチンでピザを作りベルトコンベアー式のオーブンに入れて焼いている。おそらく、それがジェットオーブンに該当するだろう。
・ベルスターは以下になる
テンポス情報館に売っている。
ボタンプッシュでスピーディーな接客サービスを実現するベルスターは
お客様とお店を笑顔で繋ぐコミュニケーションツールです。
と、示してある。
このシステムを導入したことで、今まで人間が行っていたことを省力化ができ人件費を10%を下げた。また、商品でも100品あったが、在庫数や管理費用の高いコストをさげ、利益を上げるために35品という少数精鋭にすることでバブル崩壊の危機から脱することができた。
創業者の回想
戦後、兄弟の中で初めて事業を起こそうと言った亮が、社長になりました。そして、亮はすかいらーくの歴史や背景をインタビューに答えてくれ、最後にメッセージとして以下のような言葉を送ってくれた。
「ことぶき食品から転進の時もそうだったけど、ガストの時も、要は創造と破壊なんです。今あるものを壊さなければ新しいものは生まれない。谷だからと言って悲観はしないし、山だからと言って有頂天にもならなかった。その先のもっと大きい山を見据えていたから。ここは未だとりあえずは一里塚と思い続けて今日まで来ちゃった。
ここから、すかいらーくはどんなに厳しくても生き残ってこられた理由がわかったように思えますね。
TOKIOのまとめ
「すかいらーく」の始まりは、何気ない毎日から何かに挑戦したいという気持ちに嘘偽りなく心の想うがままに進み、行動してきたからだと思う。初めのきっかけは、「ことぶき食品」という販売店を起業し、今の基盤である飲食店とは異なる業種から始める。そこで販売業の当たり前であった服装の自由や清潔感などを問題点だと仮定し、同じ服装にし統一感を作る。また、清潔な雰囲気作りをし挨拶など自ら始めていき親しみやすい店にすることで、差別化が生まれ大繁盛する。しかし、大型スーパーの出現で、食品販売に大きな打撃を与えられた。その中で、今までやってきた事業の見通しができないことを自覚し、新たなに飲食業に参入する。そこでも、飲食店の悪しき当たり前を問題とし、オープンキッチン化を進め入りやすい店にしたり、ファミリーレストランのメニューの当たり前の軽食や洋食を和食が食べたい人がいるというニーズがあることを調査し、初めて導入する。バブルが崩壊し経済が落ち込み収益ができないとわかった時には、最も費用がかかる人件費であると問題視し、飲食店で必須であるサービスを省力化することでコスト減して利益を上げて、現在のすかいらーくグループが存在している。ここまで簡単に歴史を振り返ってきたが、問題なしに成長してきたことではないことがわかる。競合他社の参入、飲食店の悪しき習慣や経済危機など様々な問題があったが、そうした問題を乗り越える時に「すかいらーく」が共通して行動していることがある。それは、現状に問題点を見つけ、改善していく。これは創業時に、現状に満足せず新たなに挑戦するという起業の始まりと同じである。ここから私たちが学べることは、日常様々な問題に直面しストレスを抱えたまま生活しているが、現状に問題点を見つけて一つずつ改善していくことが必要だということ。皆さんも、今日から「すかいらーく」の創業時の四人兄弟の一人だと思って、現状に満足せず改善の行動を取っていきましょう。
では、!!!!!
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